中世の400年の間に日本の人口が800万人から1000万人までしか増えなかったことに比べ、江戸時代に入って平和な100年が過ぎた1700年に2500万人まで増えていたことからも、清盛の時代から関ヶ原の400年間は、疫病、飢餓、戦争が原因となる人口が増えにくい時代だった。 そんな平安時代に武力を持つことは自分を守ることであり、平和をもたらすもので、平家の武力は都の人々を守るものだった。 |
清盛の父である忠盛は公卿になる直前まで位を極めて、清盛によって太政大臣という位まで登り詰める。ちょうど、現時点の放送。 そのきっかけになるのが、天皇家のお家騒動である保元の乱で、これが武力が政治を決める決定的なものとして機能し武士自身がそれを認識することになった。 清盛対義朝というあの関係はドラマの話。二人はそれほど互いを意識してなかったと思う。義朝の最期をどうするか。史実によれば、風呂で殺されたが、ドラマでカッコいい玉木宏の裸が見たかったけど・・・ 平治の乱の絵巻に残っている清盛の鎧の色は青で非常に珍しい。 |
権門体制論。大阪大学教授であった黒田俊雄が1963年に「中世の国家と天皇」という論文で提唱した概念。権門勢家という概念を用いて、中世における公家政権から武家政権への移行を説明した。公家・武家・そして寺社勢力は相互補完的に権力を行使した、と考える。 天皇の下に武士らがいるという考え方。。 |
権門体制論と対比して、東国国家論とは、歴史学者佐藤進一が提唱した学説。 鎌倉幕府を東国において朝廷から独立した独自の特質をもつ別個の中世国家と見なした。西日本を中心とする王朝国家と鎌倉幕府とは、「相互規定的関係をもって、それぞれの道を切り開いた」とする。 天皇と東の武士らは同時に立つ。京都に近い関西のみなさんはやっぱり権門体制論でしょうね。 |
頼朝が朝廷の承認を受けた「幕府」という考え方。武士による政治は実は清盛の時代に既に始まっている。つまり、「最初の幕府は平氏の六波羅か福原である」と言っても、教科書は変わらないだろうなあ。 |
従来の平清盛ドラマでは源平の戦いの元となった背景の天皇家のいざこざをあえて描いて来なかった。今回の「平清盛」では、そこをしっかり描いており、人によっては好評となっている。 以下、サイトから 保元元年(1156)7月2日、当時の絶対的な権力者・鳥羽上皇が死去すると、跡目争いが活発化する。同年7月9日、鳥羽上皇の息子・崇徳上皇は白河北殿に入り、自らが院政を行うことを宣言。藤原頼長、源為義のほか、平清盛の叔父にあたる忠正らも白河北殿に集まった。一方で、敵対する崇徳上皇の弟・後白河天皇の陣営にも、清盛、源義朝、源義康、源頼政ら武士のほか、関白の藤原忠通と藤原信西らが加勢した。7月11日未明、清盛率いる300騎や義朝の200騎が白河北殿に夜襲。朝の8時には勝敗は決し、上皇側は総崩れとなり、上皇は讃岐に流された。この戦いを保元の乱と呼ぶ。 |